自分の最期を想像できますか?

人はいつか死にます。それが何十年後かもしれないけれど、かならずその時が来ます。

もし、癌や他の大きな病気にかからず、年老いていくとしたら、その先には老衰という最期がやってくると考える人もいるでしょう。

でもね、医療はそんなきれいに死なせてくれるとは限らない、って最近は思うようになりました。


現代の医療はとにかく延命させるのが目的。

年を取ると、嚥下困難になることが多く、特に認知症が進むと、誤嚥を起こすようになる。すると誤嚥性肺炎となり、病院に入院となります。
入院して肺炎が治るとどうなるかというと、そのまま消化器外科へまわされる。
何故だかわかりますか、誤嚥性肺炎を繰り返すということは、モノを食べないでくださいという医者の判断が下されるのです。
モノを口から食べないで済むように、胃ろう設置を勧められるわけです。胃ろうとは、お腹に穴を開けて、胃に直接食事を流し込めるようなチューブの事です。
胃ろうを付けて、体力が回復して、また口からモノを食べられるようになるならともかく、回復の見込みのない、例えば認知症の進んだ患者に胃ろうを付けて延命する。
延命させるのが目的としか思えない。思考停止のパターナリズムがここにはある。

実はこのパターン、看護師である妻は当たり前のように知っていたらしい。
僕の娘のケースでも、病院はこのようなパターンで話を持ちかけてくる、と早い段階から妻は予想していたようだ。

こういう延命に意味があるのかという事で出てくるキーワードは「自然死」という考え方。

もちろん、患者それぞれの症状や環境もあるし、家族がどうしても延命してくれというなら、そうすれば良い。

でも医者に言われるがままになる前に考える必要があるのではないだろうか。病院の医者は、とにかく延命のパターナリズムしか頭に無いと思った方が良い。
食べられないということは体が食べ物を受け付けなくなってる。そこに胃ろうを付けて、意識もうろう状態のまま、家族から遠く離れた施設に何年も置かれる。場合によっては、そんな状態で3ヶ月ごとに転院させられながらです。
そういう状態で人間の尊厳があるのかどうか考えてみるべきだと思う。

僕は、年老いて食べる事ができなくなったら、自然に死なせて欲しい。

参考:この本は分かりやすくてよいです
枯れるように死にたい―「老衰死」ができないわけ




では

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