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9月, 2013の投稿を表示しています

いよいよ試験出社

復職許可の診断書が出ました。 8月中旬から復職準備を始め、最初は近くの図書館から。 そして、会社近くの図書館への通勤。 午前中だけから始めて、少しずつ時間を延ばし、途中焦って失敗したりして。 最終的には、9時ー17時で図書館で過ごせるようにして、やっと復職許可まできました。 長かった。 図書館にも慣れて、実は図書館、居心地が良くなって来たりして。 ただ、これがさらに1ヶ月とか延びたりすることを想像すると、退屈かも、、という感覚になってきました。 振り返ってみると、いったいこの休みはなんだったんだろうという気もしますが、心おだやかに過ごせる日々をまとめてもらえたことには感謝です。結果的には休んでいた期間は3ヶ月ちょっとでした。 あさってから約3週間の試験出社を経て、正式な復職になりますが、試験出社中に風邪で休んだりしたらアウト、もう一度やり直しらしいです。(これって結構プレッシャー) でも、普通に仕事が出来るようになるのか、不安でいっぱいです。 では

自宅介護の模索

先日、娘と同じ病室で隣のベッドにいたことのある男の子が亡くなり、家族でお通夜に行ってきました。 娘と同じような境遇の子が亡くなったというのは、僕ら夫婦については重たいものだった。 「ちいやん、家に帰りたいんじゃないかな」妻がポツリと言った。 僕も、娘を家に連れて帰りたいという気持ちがあったけど、実現するにはいろいろと障壁があって、積極的にその事について話したことはあまりなかった。 妻からさっきの言葉が出た事については、意外だった。 自宅に連れてくるとしたらいろいろな課題がある まず設備の用意 ベッド レスピレーター(呼吸器) 酸素ボンベ 痰吸引器(痰をバキュームして吸い取る) それよりも、24時間誰かがついて行わなければならないこと 2時間ごとの短吸引、体位交換 オムツの交換 経管栄養 毎日の清拭、洗髪 などなど 近くに手を貸してくれる親族の居ない我が家では、これらをすべて夫婦で交代でやらなければならない。 僕の仕事はどうするのか、妻の仕事もどうするのか、あわせて家事も。 そして、大きな問題は、往診してくれる主治医がいるかどうか。 通院するとなると、もう救急車が必要になるんだろう。 精神的、体力的にも高いハードルがいくつも思いつく。 でも、僕の本心は、自宅に帰してあげることが出来るならそうしたい。 では

自分の最期を想像できますか?

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人はいつか死にます。それが何十年後かもしれないけれど、かならずその時が来ます。 もし、癌や他の大きな病気にかからず、年老いていくとしたら、その先には老衰という最期がやってくると考える人もいるでしょう。 でもね、医療はそんなきれいに死なせてくれるとは限らない、って最近は思うようになりました。 現代の医療はとにかく延命させるのが目的。 年を取ると、嚥下困難になることが多く、特に認知症が進むと、誤嚥を起こすようになる。すると誤嚥性肺炎となり、病院に入院となります。 入院して肺炎が治るとどうなるかというと、そのまま消化器外科へまわされる。 何故だかわかりますか、誤嚥性肺炎を繰り返すということは、モノを食べないでくださいという医者の判断が下されるのです。 モノを口から食べないで済むように、胃ろう設置を勧められるわけです。胃ろうとは、お腹に穴を開けて、胃に直接食事を流し込めるようなチューブの事です。 胃ろうを付けて、体力が回復して、また口からモノを食べられるようになるならともかく、回復の見込みのない、例えば認知症の進んだ患者に胃ろうを付けて延命する。 延命させるのが目的としか思えない。思考停止のパターナリズムがここにはある。 実はこのパターン、看護師である妻は当たり前のように知っていたらしい。 僕の娘のケースでも、病院はこのようなパターンで話を持ちかけてくる、と早い段階から妻は予想していたようだ。 こういう延命に意味があるのかという事で出てくるキーワードは「自然死」という考え方。 もちろん、患者それぞれの症状や環境もあるし、家族がどうしても延命してくれというなら、そうすれば良い。 でも医者に言われるがままになる前に考える必要があるのではないだろうか。病院の医者は、とにかく延命のパターナリズムしか頭に無いと思った方が良い。 食べられないということは体が食べ物を受け付けなくなってる。そこに胃ろうを付けて、意識もうろう状態のまま、家族から遠く離れた施設に何年も置かれる。場合によっては、そんな状態で3ヶ月ごとに転院させられながらです。 そういう状態で人間の尊厳があるのかどうか考えてみるべきだと思う。 僕は、年老いて食べる事ができなくなったら、自然に死なせて欲しい。 参考:この本は分かりやすくてよいです 枯れるように死にたい―「

息子と公園にいってきました

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今日は暑かったですね。 息子と歩いて30分ほどのところにある公園に行ってきました。 息子は芝生の坂を転がって、元気に遊んでました。 思い切って外に行ってよかった。 では。

おしっこが出たり出なかったり

娘の事、 おしっこがほとんど出ない日が4~5日続いて、出る時は1日でとてもたくさん出るという状態が続いてる。日々の尿量が不安定なんです。 デスモプレシン 健康な人は、バソプレッシンというホルモンが脳から出ています。いわゆる抗利尿ホルモンです。これが、腎臓での水分の再吸収を促進させて、尿が出過ぎないようにコントロールしているということです。 それが娘は出ないので、代わりとなるデスモプレシンという薬を投与しています。 脳死では、体の状態を安定させるための常套手段らしいです。 だけど、尿がちょっとしか出ない時は何日も出ない、出る時は堰をきったように沢山尿が出る。 デスモプレシンを投与しているにもかかわらず、です。 うーん、娘の体では何が起こっているんだろう。 おしっこが出ない日が続いていても、血圧は普通のようだから、血中に水分がたまっているということではないのだろう?細胞にたまってる? 尿が出ない時は、顔がむくんでるしな。 代謝もおかしくなっているのかな。 もう何も検査しないって方針で病院とは合意してるから、何もわからん。 ではー

耳から血が

娘のことなんですが、耳から出血して耳鼻科の先生を呼んだりして、病院ではちょっとした騒ぎになってたようです。 その話を聞いて、妻が「あ、わたしだ」 妻が娘の耳掃除の時に傷つけてしまって、かさぶたをはがしてしまったことが原因らしく、一件落着。 でも、綿棒での耳掃除で、出血するほどの傷がつくのかな? ステロイドをずっと投与してるから、皮膚は弱くなってることは確かなんですがね。 ではー

iPad mini もう届いた

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壊れた製品を発送してから2日で、代わりの製品が届いた。早い。 はあ、今から思うとアップルケアに入っておけばよかった。

iPad miniが壊れました

iPad miniが壊れました 息子がおもちゃにしているiPad mini なんですが、車から降りる時に息子が地面に落っことしまして、画面のガラスにバリバリにヒビが入ってしまいました。 最近は、娘が入院している病院に行く時に息子も連れて行っていて、息子が病院に来てくれるようになったのは良いのですが、退屈するのですよね、で、外に行く時にはiPadを持たせていたのです。 これまでiPadは家の中では、どんなに子供が乱暴に扱っても全然壊れなくて感心していたんです。 でもさすがにレンガタイル敷の駐車場への落下には画面のガラスが耐えられなかった。 というわけで、早速iTunesでバックアップをとり、修理に出すことに。 AppleのサポートのWebサイトから、シリアルナンバーとAppleIDを入れて、集配の手配まですぐにできました。 自分の不注意で壊したので保証はきかず、修理費1万8千円はかなり痛い。 次の日には、壊れたiPad miniをクロネコが引き取りにきてくれました。ちなみに梱包しなくて良いんですね、そのまま渡してこれは楽ちん。 息子はかなり反省している様子。暇さえあればiPad miniでゲームやYouTubeだったのが、急になくなって、代わりに漫画読んだりしてる。寝る前にもやる事がないので、さっさと寝ますよとなって、いつもより1時間くらい早寝になってる。 これでモノを大切に扱う事を学んでくれたらいいのですが。 では

オリンピック

ちょっと話題になっているので、オリンピックのことから書いてみますね。 (ちょっとどころではないか) 僕が生まれて初めてオリンピックを意識したのは、ロスアンゼルスオリンピックの時でした。その頃にビデオデッキが家庭に普及して、我が家にVHSが設置されたのを覚えています。 開会式を録画して何度か見ましたね。日本の選手団だけが、きっちりと整列して行進してた。 ロケットを背負った人が飛んでくる、あれです。 柔道の山下選手が金メダルをとった時は、海水浴に行ってる時にラジオで聞いた。 確かその頃僕は小学校の高学年。あれ、ロスの前のモスクワオリンピックの記憶が全くないのはなぜだろう。と思ってウィキペディアさんで調べてみると、モスクワオリンピックは日本を含めた西側諸国がボイコットしてたんですね。 まさに、東西冷戦のなごりが残る時期、ロスオリンピックでは、東側諸国が報復ボイコットをしてたんですね。 ふーん、それでロスオリンピックの前のモスクワオリンピックの記憶がないのか。 話はそれるけれど、僕が小学校の時には、本当に核戦争が起こるんじゃないかとヒヤヒヤしてた。大人が話している東西の核保有状況を聞かされて、僕は本気にうけとってたよ。 今も各地で紛争があって、シリアの問題とかあるけど、まさかミサイルが飛んでくるとは思ってないから、日本も平和になったね。 ところで7年後になったら、どんなガジェットでオリンピックを楽しむんでしょうね。 ではー

それこそ誰かが死なずに生きていること自体が自分や家族の自由を大きく制限することになる。生きるということは時にはそういうことだ。

「それこそ誰かが死なずに生きていること自体が自分や家族の自由を大きく制限することになる。生きるということは時にはそういうことだ。」 Twitterというのは、前後の文脈を無視して、一つのポストだけ抜き出すと大きな誤解を招くこともあるが、僕はこの表題に書いたポストに釘付けになったのです。 これは、渡邊芳之さん(@ynabe39)のちょっと前のポストです https://twitter.com/ynabe39/status/361573805304459265 本当に、生きるということは時にはそういうことなんですよね。 自分の親の介護、重度の障害の子供を持つ親、人生にはそういう時がある。 いま僕はそのまっただ中にいるわけで、そんな中で、何が大事なのか見失わないように、しっかりしないと。 では

僕には、どうしても、娘は死んでいるとしか思えない

僕には、どうしても、娘は死んでいるとしか思えない。 脳死は人の死ではないと主張する人は多い。 そういう人たちは、心臓は動いているし、まだ暖かい、体の細胞は恒常を保つために生きようとしている、とか言う。 ネットで検索すると、「脳死は人の死ではない」という記事ばっかりヒットする。 そういう人たちは、自分の子が脳死になったことなんて無いのに、脳死の子供を介護したことも無いくせに、主張ばかりしているように見える。 でもね、娘は、脳幹がやられていて、体温調節ができなくて、暖めているから暖かいのであって、電気毛布で体温調節しなければ、すぐに低体温になる。菌に感染しても、発熱もしない。 尿の調節もできないから、ホルモンを投与して、尿が出過ぎないようにしている。(ほっとくと尿崩症ということになって、尿が出すぎてすぐに個体死に至る) もちろん、呼吸も呼吸器がしている。 動かないし、脳の血流も認められない。目をさまして意思疎通することなんて二度と無い。 僕は、今娘にやっていることに意味を見出すことができないんです。将来の展望が無いのに、肉体だけ保存している事に。 「それでも、わが子は生きている」、なんていう人がいるけれど、そういう人はそう思っていて結構。 それぞれの症状は違うし、考え方も違う。まだベビーだったら、僕も違う考えになっていたかもしれない。 ある日、ある瞬間に突然意識をなくした10歳(当時)の娘。 死んでいるのに、喪の作業もできていない僕は、宙ぶらりんのまま、心の整理がつかないままなんです。 では

出血傾向その後

娘の出血傾向その後 喉の痰吸引での出血は見られなくなった。でも、痰は硬い。スクイージングと呼ばれる、胸を押して肺を含めた気管からの痰を押し出す事をしながら、痰の吸引を行う。 先日、尿が出過ぎて、血圧が60代まで下がる事があったが、これは尿を調節するホルモンの投与で調節することができるので特に気にはならなかった。 娘は、排尿を司るホルモンを出す脳の部分がやられているので、ホルモン投与で長期間体を保てているのです。このせいで、長期脳死というものがこの世に存在することなってしまったのだ。 では