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12月, 2013の投稿を表示しています

出血傾向は変わりません

今日は娘のことを書きますね。 やはり出血傾向は変わらないようです。 先週のことだったか、 気管切開した穴のところに肉芽ができて、そこからしばらく出血してたそうです。 いまは出血は止まっています。 皮膚が弱くなっていて、傷ができるとなかなか再生しない体質になっているようです。 ちなみにステロイドをずっと投与されています。 ステロイドって、普通はあんまり長期に使わないほうがいいものらしい。 抵抗力が弱っているからステロイドを使っているのか、ステロイドを長期に使っているから副反応で皮膚が弱くなっているのか、よくわかりません。 酸素はあいかわらず30%で入れてて、酸素飽和度は100まで行ってる。 どこまでがんばるのかな。 病院に入ってから2度目の年越しがくるよ。 ではー

生きてるだけでまるもうけ

「生きてるだけでまるもうけ」 たしか、明石家さんまさんだったか、もしかしたら他のだれかだったかが言った言葉。 どんな文脈で使われたかは、まあ、お笑い芸人なので、微妙なのかもしれません。 でも、突然この言葉が頭に浮かびました。 今日は、終業式の学校が多かったと思います。 子供が通知表を持って帰ってきて、その通知表を見ていろいろと考えることもあるかもしれません。 もしかしたら、もっと勉強しなきゃだめでしょうと、子供を叱咤激励する親もいるかもしれません。 算数の成績が悪かった子もいるかもしれません。 でも、決して子供を責めるような事を言ってはいけないと思うんです。(僕はね) 掛け算の九九ができなくたって、AKBのメンバーになれる子だっている。 自分の好きなものを見つけて欲しいんです。 出来ないというのも才能です。 (出典:斎藤一人さん) 学校の勉強ができないから、すっぱり勉強をあきらめて、中学を出て商売を始めて成功するヒトだって世の中には沢山いるし、お金はそんなに稼げないけど、好きな仕事をして気楽に過ごしている人もいる。 出来ない勉強を出来るようにがんばって、なんとなく出来るようになって、大学まで出て、就職をして、こんな仕事やりたくないって苦しむ人もいっぱいいるんです。 苦労はしなくていいんなら、しないほうがいいんです。 (これも 出典:斎藤一人さん) だから、「生きてるだけでまるもうけ」という言葉を思い出して、肩の力を抜きませんか。 ではー

最近の心の重石

最近は、あまり娘のところに行けていません。 以前は、会社に行く前に娘の入院する病院に寄ったりしていましたが、長期欠勤から復職してからは、毎日規則正しく、9時前に会社に到着するようにしているので、平日は娘に会いに行くことはなくなりました。 それででしょうか、娘と距離を置くようになったからなのか、娘のことで落ち込むことが少なくなってきたような気がします。 1年ほど前でしょうか、心の中にある重石について書きました。そのときの記事はこちら→ 重石 その重石には、角があって、日常生活のふとしたとき、思いもよらないときに、その重石の角が心に突き刺さって、苦しい思いが湧き出してきてました。 最近は、その重石の角が取れてきたような感じ。 今も心に重石はたしかにあります。だけど、ちょっと角がとれて、重さも少し軽くなってきたように感じる。 ----- 人の心には、いろいろな雑念があって、仏教では煩悩というようですが、人の死を悲しむということもこの煩悩のひとつという事のようです。(お坊さんが読者の質問に答えるというサイト hasunoha で読んだはずなのですが、スミマセン、ソースを探しきれませんでした。僕はあいかわらずいいかげんですね) 先ほどから書いている「重石」も煩悩なのかもしれません。 重石の角がとれて、小さくなって、やがてとっても小さくなって、悲しむこともほとんどなくなり、思い出に変わる。 煩悩がひとつ無くなる。 煩悩がなくなるというのは、あるものごとをあるがままに受け止めることができる状態といえるのではないでしょうか。 それが、「悟り」の状態だそうです。(こちらも、ソース行方不明) すべての煩悩から解き放たれると、解脱という状態に達する。 これはお釈迦様しかなしとげられなかったとも。 アーメン ではー