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教会に行ってきた

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今日は寝坊せずに、教会に行ってきました。 僕が教会に行き始めたのは、今年の始めころ、日曜礼拝に毎週行っているわけではなく、たまーにいける元気があって、家で妻が子供をみてくれているときに行っています。 僕は、クリスチャンと言えるほど信仰深いというわけではないんですが、何か救いが欲しくて教会の門をたたいたという感じです。 (ちなみに、この教会の牧師さん、先週第2子が生まれたそうで、良かったですね。) 教会では、牧師さんの説教や、聖書を元にした説教、そして、お祈りがあります。 聖書も新書版で出ていたのを持っていたので、ちょっとまじめに読んでいました。 すると、イエスって、結構自己中というか、理解できない行動をする部分がありますね。僕の印象ですけど。新約聖書の時代がどういうものだったかは僕はよく分からないんですが、やたらとイエスは政府(司祭)と敵対してしまう。いろいろな奇跡を起こす中で民衆はイエスに惹かれて行くんだけれど、結局は十字架に磔にされて(磔刑)死んでしまう。そして、また奇跡が起きて、3日後に復活する。 うーん。読んだだけでは分からない部分が多い。 これは、解釈して導いてくれる人がいないと聖書は読んじゃいけないなと思いましたし、そうだということをどこかで読んだこともあります。そのとおりだと思う。 ちょっと分かりやすかったのは、 マタイによる福音書6 22- 「思い悩むな」ですね。 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる。 あなたがたは、鳥よりも価値のあるものではないか。 ・・・ あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。 」 でもこれをそのまま鵜呑みにすると、ホームレスのようになっちゃうんでは・・・ やはり、解釈して説明してくれる牧師さんが必要だ

新明解国語辞典による「いのち」

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今日は、言葉の意味の説明や用例が面白いことで昔から有名な新明解国語辞典から始めたいと思います。 僕は、新明解国語辞典のツイッターBot( @shinmeikai_bot ) をフォローしているんですが、ずいぶん前にそこに流れてきた投稿にひき付けられました。 いのち【命】   (一)生物が生きている限り持続している肉体や精神の活動を支える根源の包括的な呼称。〔一瞬一瞬を生きることの繰返しとしてとらえられる緊張の持続であり、客観的には有限であるものが、主体的には無限の連続として受け取られる所に、その特徴がある〕 主体的には無限というところでなんともいい難い、こんな短い文章で物事の真理を言われているようで、この辞書を作った人は哲学者なんじゃないだろうかと感じました。 これを読んでいる人には、子供がいるでしょうか。その子のいのちも有限なんですね、客観的には。 でも、親としては、子供と同一となっているというか、主観的に見ていることがほとんどだと思う。限りあるいのちの時間を感じて生きていかなきゃならない。そう思えば子供への接し方も変わるはず。 僕の場合、昨日までいつもどおり学校にいって、テレビを見ながらみかんを食べて、いやいやながら宿題をやっていたわが子が、突然、死んでしまう。正確に言うと、脳幹出血による脳死なんだけど、僕にとっては社会的に死んでしまった。そのとき、「いのち」は有限なんだとわかった。 こんなことになるなら、いやな算数の宿題を無理やりやらせることは無かった、掛け算九九もできなくたって良かった。 そして、世の中には、有限な いのち の子と過ごしている人がいる事を知った。同じ病室にいた中学生くらいの男子なんだけれど、僕の娘と同じように、脳波はフラット、目は開いていたり、閉じていたりするが、意識があるかはわからない。僕の子と同じような人たちがいるんだなということが分かった。 ただ、僕らのケースと違うのは、その子は筋ジストロフィー患者でもあること。筋ジストロフィーは僕も詳しくは無いけれど、だんだん筋肉が動かなくなる病気で、20歳までは生きられない。 その子の親は、限りあるいのちの時間を感じて生きて来たという事になる。本人にとっても、親にとっても壮絶な運命だと思う。 そんな人が世の中にはたくさんいる。 生まれたときから、脳に障害

今日は授業参観

今日は雨の中、息子の授業参観にいってきた。 以前、娘の時はよく行ったんだけど、その時のような楽しい気分はなかったなあ。 算数の授業だった。 息子は退屈そうに授業を受けていた。でも、やる事はやってるし、先生のいう事もきちんと聞いていて、手もあげていた。家にいる時より退屈そうに見えた。 授業が終わったら、息子が「今日は学童なしにしていい?」と聞くので、保護者会が終わったら学童に迎えに行くからとりあえず行きなさい、と。 学童に迎えに行って、娘もお世話になった事のある学童の先生と少し話した。 「お久しぶりです、お元気ですか」 と言われた。 お迎えの親に対して「お元気ですか」という事は普通はないと思うので、やはり娘の事とか心配してくれているのかなあ、と少し嬉しかった。 息子は学童ではとても元気に過ごしているようだ。他の学年の友達も多くて、これは学童の良さだなと思う。 保育園の時も、夕方のお迎えの時間帯になると、複数のクラスが一つに集められていて、歳のちがう園児が入り乱れて遊んでいた。これもよかったなあ。 近所のスーパーに息子と買い物に行ったりすると、やたらと子供が挨拶してくる。誰?と息子に聞くと、ちがう学年のお友達だったりする。 僕の幼少期はそうではなかったので、ちがう学年の友達ができるというのはすごいと思う。 今日はこの辺で… ではー

長期脳死

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長期脳死という言葉があることをしったのは、娘が脳死になってから少し後のことです。 脳死と植物状態っていうのは違うんです。詳しくはググってもらえればと思います。 植物状態は自発呼吸があることが多いんです。しかし、脳死は自発が無いので呼吸器が必要。 特にこどもに多いらしいんですが、脳死の状態が比較的長く続くことがある。 30日以上その状態が続いている人のことを長期脳死というらしい。 僕の娘は1年と4ヶ月近くその状態。 こういう患者は結構いるらしい。もうちょっと元気になったらまとめてみたいと思います。 世の中には、わが子が長期脳死になっても、心臓が動いている限り生きている。と前向きに考え、自宅療養にする家庭もあるみたいです。 でも、僕が思うに、このまま延命し続けて意味があるのか?と思ってしまう。 CTスキャンの画像を見ても、脳の形態はまったく見えなくなっていて、のっぺりした餅の断面のように見える。 脳は機能をしていないので、息をしろとの命令が脳から出されないので、無理やり人工呼吸器で呼吸をさせている。 目も開けない、永遠に眠ったままの状態。 意識は、、無いと思う。もし周りの声が聞こえていたら、それはそれでとてもつらい。 この子にとって、幸せなのか。残された僕たち家族にとって幸せとは何なのか。 莫大な医療費をつかって延命させる意味があるのだろうか。 なんだか、いろんな疑問ばかりで、翻弄され続けてきました。 もちろん、少しでも回復する希望があるのなら話は違います。その希望に向かって突き進むだけ。 これが5歳程度の抱っこできるくらいの大きさなら、家に連れて帰って介護することもできるだろうけど。家に連れて帰るっていっても、もう11歳にもなる娘の体は大きくてどうしたもんかと。 今日はここまで では

仕事を休んでいます

今週から、病欠ということで長期休暇に入りました。 とにかくいろいろなことがありすぎて疲れちゃったというのが本音。 妻のうつ病、脳死状態の娘の事、そんな中で仕事を続けていくのが辛くなってしまいました。 会社の産業医の先生とも相談し、ちょっと療養したらどうかということになり、私のかかりつけのメンタルの先生に診断書をもらって、即病欠。 とりあえずは1ヶ月、様子をみて期間は考えましょうという事になった。 仕事をしているときは、毎日ほぼ定時に退社。妻が夕方にはダウンしてしまい、小学校2年生の息子が放置状態になってしまうから、毎日ハラハラ。遅い時間のミーティングが入るような仕事がきませんように・・・っていつもびくびくしながら会社に行ってた。 普通に仕事してたら夜にもミーティングが入ってくるようなこの仕事。これからも続けられるのだろうか。 自宅の最寄り駅が仕事場になるという求人があったけれど、こんな状態で転職できるかなー では