新明解国語辞典による「いのち」

今日は、言葉の意味の説明や用例が面白いことで昔から有名な新明解国語辞典から始めたいと思います。

僕は、新明解国語辞典のツイッターBot( @shinmeikai_bot ) をフォローしているんですが、ずいぶん前にそこに流れてきた投稿にひき付けられました。


いのち【命】 
(一)生物が生きている限り持続している肉体や精神の活動を支える根源の包括的な呼称。〔一瞬一瞬を生きることの繰返しとしてとらえられる緊張の持続であり、客観的には有限であるものが、主体的には無限の連続として受け取られる所に、その特徴がある〕

主体的には無限というところでなんともいい難い、こんな短い文章で物事の真理を言われているようで、この辞書を作った人は哲学者なんじゃないだろうかと感じました。

これを読んでいる人には、子供がいるでしょうか。その子のいのちも有限なんですね、客観的には。

でも、親としては、子供と同一となっているというか、主観的に見ていることがほとんどだと思う。限りあるいのちの時間を感じて生きていかなきゃならない。そう思えば子供への接し方も変わるはず。

僕の場合、昨日までいつもどおり学校にいって、テレビを見ながらみかんを食べて、いやいやながら宿題をやっていたわが子が、突然、死んでしまう。正確に言うと、脳幹出血による脳死なんだけど、僕にとっては社会的に死んでしまった。そのとき、「いのち」は有限なんだとわかった。
こんなことになるなら、いやな算数の宿題を無理やりやらせることは無かった、掛け算九九もできなくたって良かった。

そして、世の中には、有限ないのちの子と過ごしている人がいる事を知った。同じ病室にいた中学生くらいの男子なんだけれど、僕の娘と同じように、脳波はフラット、目は開いていたり、閉じていたりするが、意識があるかはわからない。僕の子と同じような人たちがいるんだなということが分かった。
ただ、僕らのケースと違うのは、その子は筋ジストロフィー患者でもあること。筋ジストロフィーは僕も詳しくは無いけれど、だんだん筋肉が動かなくなる病気で、20歳までは生きられない。
その子の親は、限りあるいのちの時間を感じて生きて来たという事になる。本人にとっても、親にとっても壮絶な運命だと思う。

そんな人が世の中にはたくさんいる。

生まれたときから、脳に障害があって、人工呼吸器、ちっとも動かない。そんな子の親もいる。
娘の入院先でそんな子供が何人もいることが分かった。

だから、今普通に生きているだけで奇跡なんだよと。

今日はここまで。

ではー










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